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さとのわ(SATONOWA)・旬だより ※2024年11月現在

山北みかん別役さんの産地直送・おきつ(興津)系品種は、11月下旬以降の予約販売開始予定となっております。それまでは、満天みかんなどの販売が中心となります。今年は気温が高かった為、ミカンの色づき具合が遅いです。

山北みかんの歴史

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山北みかんの歴史について

山北みかんの歴史は江戸時代、安政二年(1855年)から始まりました

山北みかん栽培の歴史は古く、江戸時代にさかのぼります。

そもそも土佐(今の高知県)にみかんが入ってきたのは、野中兼山が導入した寛文二年(1662年)以降と考えられています。(香我美町史・上巻より)

その後、安政二年(1855年)になり、池田文治という方が、長岡村(現在の南国市)から、温州みかんの苗木数本を持ち帰った記録が残っています。これを明治16年(1883年)ごろ、西光部落の桑名国次さん(1874年生まれ~1941年没)という方が、その優秀性を認め、栽培を始めました。これが今、確実に記録が残っている「山北みかん」歴史のはじまりです。

明治31年(1898年)、山北村の藤田喜全さんが、県庁から配布された数本のネーブルオレンジを植え、良好な結果を得て、明治37年には和歌山県から2000本の苗を導入するなどしました。このころはまだ、山北周辺では、温州みかんよりもネーブルのほうがよく栽培されていたようです。

明治42年(1909年)、山北村で50アール以上のミカンを栽培していたのは、桑名国次、藤田卯太郎、藤田喜全、岡崎関治、桑名菊次さんの5名だったと記録が残っています。それ以降、農家の精進により、ネーブルオレンジと温州みかんをベースとして柑橘産地が山北村に形成されていくこととなるのですが、大正6年(1917年)の大寒波(1月9日マイナス6.8度)、続いて大正7年(1918年)の大寒波(1月8日マイナス6.8度)が起こり、ネーブルオレンジが大被害を受けます。この連年の被害により、ネーブルオレンジ栽培に見切りがつけられ、温州みかん(=山北みかん)が広く栽培されるようになります。

第二次世界大戦前の山北みかんは、栽培面積約60ヘクタール、収穫量186トンを超えるまでになっていましたが、戦争に突入してからは、肥料・農薬の入手が困難となり、労働力不足もあって一時的に衰退します。

香我美町のミカン栽培が本格的に発展したのは戦後、昭和25年(1950年)ごろからです。

昭和46年(1971年)には、香我美町のかんきつ栽培面積は205ヘクタールに達し、高知県内の柑橘栽培の面積に占める割合は25%を占めるようになります。

(出典: オーテピア高知図書館所蔵・香我美町史より)

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